欠伸

電車で私の真向かいに座っている女性が欠伸をした。

中国の三国時代の豪傑が酒の席でする様な、若しくは、龍が雲の中から轟音を鳴り響きかせながら出現してくる様な、若しくは、甲子園決勝9回裏2アウト満塁0-1で負けているチームがする円陣の掛け声の様な、天下に轟く豪快な欠伸だった。

 

女性の左隣に座っている中年サラリーマンは、欠伸が始まった瞬間、これは只事ではないと察し、内ポケットから携帯電話を取り出し慣れないながらも写真を撮った。しかも連写モードで撮った。

 

女性の右隣に座っている女子高校生は、テスト期間中なのか英単語帳を読んでいたが、中年サラリーマンが携帯電話を取り出した瞬間、隣で起こっている一大事を瞬時に理解した。「こんな事ってある?!うわぁーーーー!!」と叫びながら、欠伸を必死に脳内に焼け付けた。学校に行ったら皆に話そうと彼女は思った。

 

私の右隣に座っている青年は最初、女性の欠伸を目の端で捉えながらも、目立った動きをしなかった。しかし、心の中はあらゆる世界の事象が雪崩の様に降りかかり、渦を巻き、天に昇り、弾け飛ぶ様な動揺と高揚と活力で溢れていた。彼はあまり流行りものには興味がない。正確に言うと流行りものに乗らない事によって自分のアイデンティティを保っている面がある。そんな彼が今ぽっと出の欠伸に反応するなどあってはならない事であった。しかし、抗えがたい魅力の前には、意志など無力。すぐに彼はポケットからハーモニカを取り出し、モーニング娘。の【Love マシーン】を吹き、この場にいられた奇跡を祝福した。

 

私の左隣に座っているおばさんは、女性が欠伸をした瞬間、事の重大さに気づき隣に座るご主人の腿を「あんたぁ!あんたぁ!」と叩いた。ご主人は奥さんの興奮とは対照的に欠伸をしみじみと見て「そうか...。今まで色々すまんかった。これからもよろしくな」と奥さんに向かって呟いた。ご主人は20年振りに奥さんの手を握った。

 

ドア付近に立っていた若いキャリアウーマンは、欠伸を見て自分の人生を振り返った。子どもの頃は引っ込み思案な女の子だった。しかし、高校生の頃初めて付き合ったアクティブな彼氏の影響で、何事もまずは飛び込んでみるというチャレンジ精神がついた。彼とは自転車で2人乗りをして土手を走ったり、放課後教室で語り合ったりと、大切な時間を過ごす事が出来た。大学は東京に出て、初めて1人暮らしをした。大学では軽音サークルに入ってみた。バンドを組み、演奏する楽しみを知った。サークルや学部、アルバイト先の何人かの男性に告白され、付き合った。彼らとは少し背伸びしたオシャレなバーに行ったり、熱海に旅行に行って海で語りあったり、よこはまコスモワールドの観覧車に乗って頂上でキスもした。今でも思い出すと、心が締め付けられる。卒業旅行はゼミの仲間とはバリに行き、サークルの仲間とは沖縄に行った。帰りの飛行機で「これにて大学生活編、完結!」なんて心の中で締めくくってみた。仲間に恵まれた大学生活だった。就職面では希望していたメディア関係の会社に入社する事が出来た。これからここでキャリアを積み、行く行くは社会に大きな影響を与える人になりたいと思っていた。先輩にも同期にも恵まれた。希望の部署にも配属され、大変ながらも充実した毎日を過ごしていた。・・・と思っていた。そんな矢先、彼女は鬱病になった。勝手に涙が出る。朝起きられない。常に頭に靄がかっていて、思考がうまくまとまらない。身体全体に浮遊感があって、自分の身体ではない感覚に陥った。同年代の人達より早く成長したい。自分の仕事で世の中を良くしたい。そんな思いが先走り、仕事量がキャパシティを完全に超えてしまっていた。身体の不調は薬を飲んで休息をとれば治るが精神の不調はどうやったら治るのか、彼女には全く想像が出来なかった。彼女はここまで満足の行く人生を歩んできたし、これからも歩んでゆくのだろうと勝手に思っていた。何故こんな事になってしまったのか。何処で間違えたのか。彼女は仕事を退職し、実家に戻った。母親に鬱病の事を話すと「あんたが気の済むまでここでゆっくりしとき」と言われ、涙が止まらなかった。実家では日が暮れるまで、子どもの頃よく遊んだ公園や初めての彼と初デートに行ったイオンのフードコート、夜あまりの腹痛にお父さんに連れて行って貰った救急病院など思い出の場所を散歩した。そして彼女はこれ程までの愛に支えられ生きてきた事に気がついた。それからは鬱病は快方に向かっていった。現在、彼女は学生時代では負け組だと思って見向きもしていなかった居酒屋の店長として働いている。酔っ払いの対応や言うことの聞かない学生アルバイト、長い労働時間・・・日々大変であるし、前職の様な一歩一歩人生の階段を登ってる感じはしない。昔の自分が思い描いていた人生とは外れてしまった。彼女はそれを少しずつ受け入れて生きていく覚悟を持つ事が必要だと感じている。しかしまだ思い通りの人生を歩んでいた自分の虚像を諦め切れない。その宙ぶらりんな状態が今の彼女だった。そんな矢先に出会った女性の欠伸だった。

 

私の左前に立っていた若いサラリーマンは、いじっていた携帯電話を落とした。画面が割れていたが、気がついていない様子だった。こんな偶然があるのだろうかと彼は思った。あの欠伸は、間違いない。小学生の頃、転校してしまった初恋の人だった。彼は女性の元に行こうとした。しかし、あの欠伸の前では全てが無力。ただただ見惚れてしまった。足が動かない。ならばと彼は、この風景を絶対に忘れませんように、と祈った。

 

私は女性の欠伸を見て、思わず緊急停止ボタンを押そうとした。

緊急停止ボタンを押してこの空間に女性の欠伸を永遠に閉じ込めたい。ここにいる皆と酒を酌み交わし、キャンプファイヤーをして、マイムマイムを踊って、テントの中で好きな人の話をして、時々女性の欠伸を見て・・・そんな日々を送りたいと思った。しかし、気付いた。緊急停止ボタンを押してもそんな日々は来ない。電車が止まるだけだ。そう、つまり私は混乱していた。そして私は何を思ったか(どうせ混乱しているなら・・・!)と、急に踊り出した。そう、まだ混乱していたのだ。曲名は分からないが、アップテンポなハーモニカの音が聞こえた。ステップを踏む。手をL字にして前へ押し出す。中年サラリーマンがwow wow wow wowと相の手を入れ、叫んでいる。女子高生は、手を叩いて大声で笑っている。キャリアウーマンは私の前に立ち、泣きそうな目でこちらを一瞥し、何故か一緒に踊り出した。中年夫婦は、握り合った手は離さず、各々もう片方の手を頭の上で振った。若いサラリーマンは、欠伸をしている女性の元に四つん這いになりながらも辿り着き、告白しようとしていた。

 

 

 

女性は欠伸を終え、乗客は各々の日常へと戻っていった。

眠たいのだろう、女性はそっと目を閉じた。