誠宮道貞①

プリン鳴る

 波乗り男が

  消えた街

   多摩川行きは

    up and down

     作者 誠宮道貞

 

この短歌をご存知だろうか。

誠宮道貞なる人間は、ネット上で創作短歌を発信している人物であり、一部の界隈に熱狂的なファンを持っている。しかし、そのあまりにも前進的な作品性は大衆受けとはかけ離れており、結果世間的に全くと言いほど注目されていない。

彼の人間性は非常に複雑である。ある人は彼を「根拠の無い自信家であると同時に根拠の有る小心者」と評する。彼は作品のオリジナリティーを非常に大切にしており、この世にまだ誰も作った事の無い短歌を創作しようと日々勤しんでいる。彼自身それはある程度達成していると踏んでいる。その思い込みが彼の自信を支えていた。一方で彼は他の作者の短歌をあまり見ない。知っている短歌と言えば小学校の国語の教科書に掲載されていた歌の一部をちらほらまばらに覚えているくらいだ。彼はあまりにも短歌を知らない。正確に言うと知る事を恐れている。何故か。自分の作品が凡庸であるという事実を突きつけられる可能性があるからだ。もし他に同じような作品があったら?とても彼の小さな器では耐えきれないだろう。自分を守る為に彼は小心者であろうとしている。

ただ私の見方では、最近こうした彼の姿勢には変化が見られる。徐々に他の作者の作品を参考にしている節があるのだ。何か心境の変化があったのか、私には分からない。しかし、もがきながらも前進しようとするその姿勢には、頭が下がるばかりである。

前置きが長くなったが、冒頭申し上げた様に彼は世間であまり認知されていない。そこで、大変僭越ながら誠宮道貞のファンである私が少しでも彼の短歌を世に広めるべく、このブログにて紹介させて頂く運びとなった。

さて、彼の短歌の一番の特徴は何と言っても「解説がないと意味が分からない」点にある。上記の短歌にしても、いくら読み込んでも何を言いたいのかさっぱり分からない。

プリンが鳴るとは一体どういう事か。波乗り男が消えた事と一体何の関係があるのか。そして唐突に出てくる多摩川というキーワード。ラストを締めくくるup and down…。

この記事ではなるべく平易な文章で上記短歌の素晴らしさをお伝えしていきたいと思う。

そしてこの記事を読んだ後、1人でも多くの人にとって、誠宮道貞という人間がふとした瞬間に思い出し、心が少し暖かくなる、その様な存在になってくれれば、これ以上の幸せはない。

 

初句 プリン鳴る について。

 

誠宮の短歌の特徴として「身近な名詞を違和感ある動詞とくっ付ける」という点があり、この短歌にも活かされている。

「プリン」という誰しもが一度は食した事のあるデザートと「鳴る」という生物しか発し得ない動詞をくっ付けているのだ。

ではプリンが鳴るとは一体どういう事か、解説していきたい。

まず前提知識として、誠宮にとってプリンとは非常に大切な食べ物である事を認識して欲しい。

彼はプリンについて

「電車の中でThe Beatlesを聞きながら食べる物」(コロコロコミック第3536号巻末インタビューより)と評している。

つまり、The Beatlesという偉大なロックバンドの曲を聴き安心感に包まれながら、電車の中で食事をするという言わば周りからは眉をひそめられる行為を実行する。

非難の目を感じつつ、何かに守られているという実感を得る。

その非難と安心感との間を振り子の様に行き来しながらその振れ幅自体を楽しみ、生きがいとする。そのダイナミックな感情の動きにポップなアクセントを加えるには、プリンが1番適している。彼にとってプリンとは、そういう食べ物なのだ。

勿論、小心者かつ周りの目を非常に気にする彼には、電車の中でプリンを食べる勇気などない。あくまで彼の想像上の話である。

そしてそのプリンがこの短歌では、鳴ると表現されている。

鳴るとは、音を発するという意味である。プリンはどの様な背景で音を発したのか、この時点ではまだ明らかにされていない。続いて第2、3句を見ていきたい。

 

2句 波乗り男が

3句 消えた街 について。

 

彼の短歌の2つ目の特徴として、「彼の今までの経歴や経験談を知らないとまるで意味の分からない歌になる」という点がある。

それでは2、3句について、彼の思い出と共に解説していきたい。

2句の波乗り男とは普通に考えればサーファーの事だろう。

そして3句で言及されている街は元々サーファーで賑わう街であった事は確かだ。

サーファーの経済効果は非常に高い。ある浜では年間約12億円にも昇るという。サーファー相手に商売をしている人も沢山いるだろう。そうした人達にとってサーファーが消えてしまうなんて、一大事である。

さて、彼はサーファーに対して、非常に嫌な思い出を持っている。

誠宮が海辺に出掛けた時の事。彼は砂浜を1人で歩いていた(何故彼が1人で海に行き、砂浜を歩いていたかは、本題とはズレる為、別の機会に譲りたい)

すると海から上がってきたサーファー2人組(どちらも色黒で筋肉マッチョ、顔の濃い男だった)に声を掛けられた。

「あの、海の家・竜宮城って知らないですか?」

 誠宮は知っていた。

「あぁ、知ってますよ。僕もこれから行こうと思っていたので、一緒に行きましょう」

「あぁ・・・でも大丈夫ですよ!悪いっすよ!場所さえ教えて貰えれば!」

「いえいえ、行きましょう!事のついでです!」

「うぃ。ありがとうございます」

誠宮は彼らを海の家・竜宮城へ連れて行った。ただでさえ人気店である事に加え、昼時であるせいもあり、行列が出来ていた。ここの焼きそばは本当に美味しく、誠宮の好物の1つであった。

誠宮が胸を躍らせながら行列に並ぼうとした時、彼らはとんでもない行動に出た。

何と誠宮より、前へ並んだのだ。

しかもそれが当然であるかの如く自然な風に。

誠宮は困惑した。自分が案内したのに、何故彼らは自分より前へ並ぶのか。

前へ並ぶ彼は既に自分達の世界に入っており、誠宮には目もくれていない。

午後はどの女に声を掛けるやら、どのバーに連れ込むかなどと話している。

おかしいだろう。何故案内した自分より前へ並ぶのか。普通感謝を示しつつ、自分の後ろに並ぶのではないか、と誠宮は徐々に怒りを覚えてきた。一方で、行列が進むにつれ、ある1つの希望を彼は見いだしていた。店員さんに席へ呼ばれた際に、彼らは誠宮に順番を譲るのではないか。今は仮に誠宮の前に並んでいるだけではないか、と誠宮は考えたのだ。

しかし、彼の希望は脆くも崩れ去る。彼らは店員さんに声を掛けられると、こちらに一瞥する事もなく、席へと進んでいった。誠宮は膝から下の感覚が無くなった様に立ちすくんだ。誠宮にも一言文句を言う気概があれば良かったのだが、そんなものは1分子たりとも持ち合わせていなかった。

そんな彼は今もサーファーに対して怨念じみたものを感じているのである。

 

彼のこうした波乗り男(=サーファー)に対する辛い思い出を前提に、もう一度、初句「プリン鳴る」からの一連の意味を考えていきたい。

初句「プリン鳴る」では非難の目に晒され居づらさを感じつつ、一方で自分は安全圏にいるんだという安心感を持つこと。そしてその両極を行き来する感情自体を楽しむ事。それこそが誠宮の生きがいである事。そんな時に食べるのがプリンである事を申し上げた。

非難と安心感---。

道義的に考えればサーファーが居なくなるというのは、海の街としては大打撃であり、商売を畳む人も出てくるだろう。それを無邪気に喜ぶ彼は、非難されるべき対象である。

一方波乗り男が消えた街とは、天敵のサーファーが居なくなるという誠宮にとっては願ってもない状況であり、言わば彼にとって安全圏が生まれたことになる。

つまり彼にとって「波乗り男が消えた街」という状況は「人の不幸を喜ぶな!という周りからの非難の目」と「天敵の居ない安全圏にいる安心感」の両極が生成されている事になり、正に彼はプリンを食べるべきタイミングにいるのだ。

「プリン鳴る」とは、そうした状況である事を象徴的に表現しているのである。

 

 

4句 多摩川行きは

5句 up and down について。

 

さて、それでは4句5句について解説していきたい。

2句3区「波乗り男が消えた街」の句は海を彷彿とさせていたが、一転対照的に川というキーワードが出て来た。しかも多摩川である。多摩川については誠宮を語る上で欠かす事の出来ないキーワードであるので、是非覚えておいて頂きたい。彼は多摩川における思い出を沢山持っているので、よく作中にも出てくるのだ。

さて、初句~3句(プリン鳴る 波乗り男が消えた街)で彼は自分の心情について丁寧に記述した一方、4句5句(多摩川行きはup and down)では彼の行動面を中心に表現している。

多摩川行きというのは、彼が普段利用している路線・東急多摩川線多摩川行きを指していると考えるのが自然だろう。しかし、東急多摩川線はup and down(上ったり下ったり)が激しい路線かと言われると、そうでもない。では何故up and downで誠宮はこの短歌を締めくくったのか。彼はこの短歌においてup and downを「行ったり来たり」という意味で用いているのだ。ここまで言えば往年の誠宮ファンならもうピンと来た方もいるかもしれない。

そうあれは2015年12月のこと。その日は特に寒い日であった。彼はいつもの様にカメラ片手に多摩川へ向かおうと東急多摩川線に乗っていた(彼の趣味は写真撮影である)。今日はどんな風景を撮ろうかと胸が高鳴っていた。両手の人差し指と親指でL字型をつくり、互いにくっつけて□にした。彼はカメラのファインダーに模したその□をそっと覗き込んでみた。その瞬間自分がいかに大胆な行為をしているか、気がついた。電車内でカメラ小僧よろしく、□を覗き込むなんて、なんて目立つことをしてしまったのか。恐る恐る周りを見ると、誰も彼の事を見ていなかった。良かった、きっと誰も見ていなかったのか、見ていたとしてもちょっと変な人が居るくらいの認識ですぐに自分の世界に戻ってくれたのだろう。そう思う様にして、しばらく息を殺して座っていた。しかし彼の願いは脆くも崩れ去る。多摩川駅に着き、ホームに降りた瞬間、声を掛けられた。

「あの~もしかして、多摩川の自然を撮るイベントに参加される方ですか?」

振り返るとスレンダーな若い女性が笑顔で立っていた。

真っ赤なマフラーに黒いコートを着ていて、長い金髪がよく映えている。

「・・・自然を撮る・・・?」

誠宮はそのイベントに参加する予定はない。

「・・・いえ。違いますけど。」

「えっ・・!あっ!ごめんなさい!つい車内でカメラのポーズをされていたので」

「あっいえ・・・全然」

「つい写真撮る方なのかな、と思ってお声がけしちゃいました!」

(そのイベントには参加しないけれど、写真は撮ります)

そう伝えようとすると、彼女は「すいませんでした」と頭を下げ、笑顔で去っていった。

しっかり見られていたのだ…。

あのポーズを…。

彼は、見られていたという恥ずかしさを感じると共に、ある懸念を抱いた。

そして多摩川沿いに行ってみると正にその懸念が現実化していた。

誠宮の撮影スポットに集団がいて、その中にあの真っ赤なマフラーの金髪女性の姿が見えるのだ。

彼は頭の中に渦が巻く感覚に陥った。

誠宮は一度微妙に顔見知りになった人間とのコミュニケーションが非常に苦手なのだ。

しかも彼の弱み(恥ずかしいポーズを見られたこと)を握った相手だ。彼にとって彼女はもう2度と会いたくない人間である。

更に彼女は誠宮の事を写真を撮らない人と認識している。にも関わらずカメラを持った誠宮を彼女が見つけたら、誠宮は嘘をついた事になり、非常にばつが悪い。

もし彼女に見つかったら、何故どうしようもない嘘なんてついたのか、と不思議な顔をされるのが落ちであろう。

ここまで考えるのが誠宮なのである。

しょうがない。彼は踵を返し、また帰りの電車に乗った。

車内のちょっとした行為が、これ程までに悪影響を及ぼすとは、彼自身驚いていた。

もし□なんて作らなかったら、彼女に声を掛けられる事もなかった。万事上手くいっていた。

一体自分は何をしているのか、彼は情けなくなった。

何故自分が帰らなければいけないのか。彼女が勝手に早合点して話しかけたのが悪いのに。自分は何も悪くないのに・・・。

彼は電車に揺られながら自分が帰る必要があるのか自問し始めた。

そして「なんで俺が帰らなきゃならないのだ!俺は写真を撮りにきた!ただそれだけだ!帰る必要などない!」そう結論づけた。

彼はもう一度反対方向の電車に乗り、多摩川駅へ向かう事にした。

よしよしよし、俺は写真を撮りに多摩川に行くんだ、写真を撮りに多摩川に行くのだ、もしかしたら彼女に会わないかもしれないし、会ったとしてもあの集団だ、声を掛ける事なく過ぎ去る可能性の方が高い。よし行ける!

そう言い聞かせて彼は多摩川駅を降りた。

 

結論から言うと、彼は写真を撮る事無く、再び帰りの電車に乗った。

彼女の姿を河原で見た瞬間、彼の決意はぼろぼろに砕け散ったのだ。

 

これが誠宮道貞の東急多摩川線up and down(行ったり来たり)事件である。

短歌ではこの事件を「多摩川行きはup and down」と、何の捻りもなくただ記述している。彼としては読者に自分の失敗談を記述し、ちょっとした笑いを提供しようとしているのだ。しかし私が思うに本質は全く異なる。

誠宮は読者に「よくある!よくある!」「私もこういう事あったよ!大丈夫!」と 言って欲しいのだ。非難ではなく、安心感が欲しいのだ。これが本質である。

でなければ、自分の欠点を他人に打ち明ける事を嫌う器の小さな誠宮が、自分の情けない事件についてなど短歌で言及し得ないからだ。

 

 

まとめ

 

プリン鳴る

 波乗り男が

  消えた街

   多摩川行きは

    up and down

 

とは・・・

「プリン鳴る波乗り男が消えた街」で「非難と安心感を行き来する事自体が自分の幸せだ」と読者に豪語しつつ、「多摩川行きはup and down」では「やっぱり安心感だけ得たいよね」とチラリ見事なダブルスタンダードを披露している。そんな誠宮の意気込みとエゴと矛盾とがごちゃ混ぜにされている。そんな短歌なのである。